Alexis Mikhailovich Romanov

1629年3月10日(西暦)、モスクワで生まれたアレクシスは、1917年までロシアを支配することになる王朝の初代ミハエル・ロマノフの息子であった。 1645年にミハエルが亡くなると、わずか16歳のアレクシスが王位を継承した。

アレクシスの治世は多くの民衆の反乱に悩まされたが、最も深刻だったのは、コサックの指導者ステンカ・ラージンのもとロシア南東部で起こった反乱であった。 また、ソロヴェツキー修道院の修道士による反乱や、プスコフ、ノヴゴロド、モスクワなどの都市で市民による反乱が発生した。 アレクシスは、これらの反乱を鎮圧する一方で、一般的な不満を静めるために行政や司法を改善する措置を講じた。 特に重要だったのは、1649年に新しい法律法規を導入したことである。

アレクシスは、以前のモスクワ君主の伝統を受け継ぎ、ロシアの新たな拡大を指揮したが、彼は決して戦う支配者ではなかった。 ドニエプル川を中心とする広大なポーランド領と後のウクライナの一部を獲得したのは、ウクライナのコサック住民の招聘によるものであったことは重要なことである。 ポーランドとの長期にわたる対立の後、1667年のポーランドとの休戦協定により、併合地の境界が確認された

アレクシスの治世には、ロシア正教会の総主教ニコンとの対立も重要な意味を持つ。 この対立とニコンの北方修道院への亡命にもかかわらず、総主教はアレクシスの承認を得て、ロシア教会内の大分裂の原因となった教会改革を実施した。

アレクシスは、マリア・イーニシュナ・ミロスラフスキーと、彼女の死後ナターリヤ・キリロヴナ・ナリシキナと二度の結婚をした。 アレクシスは1676年1月29日(西暦)、モスクワで47歳の若さで急死した。 最初の妻との間に長男フェオドルとイワン、二番目の妻との間に次男ピョートル(後の皇帝)が生まれ、3男6女が残された